佐藤成史FF徒然草第23話、フライフィッシング佐藤成史FF徒然草第23話、フライフィッシング佐藤成史FF徒然草第23話、フライフィッシング
佐藤成史
FF徒然草 第23話


■こんな穏やかな風景の中でも、何が起こるか予想すらできません

☆つむじ風  ……ある晴れた日の午後に

 このお話は、10年ほど前に自分自身が体験した実話です。

 清々しい陽射しの降り注ぐ北国の初夏、谷間の森と川は、生き急ぐ生物たちの活気に満ち満ちていました。

 東北地方の取材は順調で、予定よりも1日早く終了しました。スタッフは早々に帰京することになったため、私は残りの1日を使って、以前から気になっていた北上山地北部を流れるある渓を訪ねてみようと思いました。そこはアクセスが容易なわりには大物が多く、時期的にも6月が一番だと聞いていたからです。

 盛岡から2時間ほどのドライブで目的地に到着しました。整然と植え込まれた落葉松林は新緑の季節を迎え、眩いばかりの萌黄色にきらめいています。渓を見下ろせる場所に何度も車を止め、流れを覗き込んでは魚を探します。特別大きな魚は見当たらないものの、良いポイントには必ずといっていいほど魚影を見ることができます。

 どこから川に降りようかと思案しながら、とりあえず上流部まで走って川の全貌を把握することにしました。それで先行者の有無も確認できるし、釣りをする区間の様子もあらかじめチェックすることができます。

ゆったりとした流れは、地図で見るよりもはるかに奥が深そうでした。そろそろ偵察はやめて、あらかじめ確認してあった入川点まで戻ろうとしたとき、川へと続いていそうな細い道がふと目に入りました。入り口付近の草はきれいに刈られていたので、山仕事の人たちが往来する小道なのだろうと思いました。

車を止め、その道を辿って川まで降りてみました。川の規模はすっかり小さくなっていましたが、新緑を映す水面はきらきらと輝いて、軽やかな沢音が心地良く初夏の空気を震わせていました。

少し下流から釣り上がって、ここから上がればいいかなと思いながら車へ戻りました。そしてドアを開けて車に乗り込もうとした瞬間、誰かの声が聞こえたのです。

「すみません……」

声の主は見当たりませんでしたが、それは確かに中年女性の声でした。

周囲には何の気配も感じられません。しかしその声があまりに近かったので、当然、自分に対して投げかけられたものだと判断しました。山菜採りの人でもいるのだろうか? そんなふうに思い直し、あたりを見回しながら少しの躊躇と共に、

「はい!」

と答えてみました。

するとそのとき、自分の発した声に重なるようにして、「はい!」という別の男性の声が聞こえたのです。その前の女性の声といい、聞き間違えることなどありえないはっきりとした“音”です。やはり他にも人がいるのかと、もう一度周囲を見渡しました。

けれどもそこには何の気配もなければ、人の姿など一切見当たりません。さっきまでとまったく同じ風景が広がり、青い空に燦々と太陽が輝いているだけです。

しばしの沈黙……そして、背筋を走る悪寒……。

その刹那、あろうことか、一閃のつむじ風が谷筋を吹き抜けたのです。それはブォーという轟音と共に下流方向から吹き上げてきました。

舞い上がる砂塵、新緑に萌える落葉松の枝葉を揺り動かし、森全体が低い唸り声をあげてざわめいていました。まるで今起こった不思議な出来事を、一瞬にして時空の彼方へと吹き飛ばしてしまうかのような勢いです。

空は高く青く、降り注ぐ陽射しの明るさにも何の変化もないのに、自分を囲む空間だけが、別の世界に入ってしまったような……そんな違和感を覚えました。

このままどこかへ連れ去られてしまうのか、誰がいったい何のために? これは現実? どうして自分がこんな目に……。さまざまな不安が脳裏を駆け回る中、慌てて車に飛び乗り、一目散に林道を駆け下りました。

生命ざわめく季節には、現世とあの世を隔てる扉に隙間ができるのでしょうか。

いつもは暗黒のしじまに漂う魑魅魍魎たちも、ついついその隙間から飛び出して、かつて自分たちが存在した世界を懐かしむのかもしれません。過ぎし日の夢を追いかけ、昂ぶる気持ちを抑えられずに……。

きっと何かの巡り合わせで、たまたまそんな妖しい場面に遭遇しただけなのす。あのとき目に入った小道は、あちらの世界とこちらとをつなぐ通路だったのかもしれませんね。

渓を囲む世界には、不思議な出来事がたくさん転がっているようです。

2005年11月
佐藤成史

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