佐藤成史(さとう せいじ)
【プロフィール】
1957年、群馬県前橋市生まれ。北里大学水産学部水産増殖学科卒業。日本全国はもちろん、アメリカをはじめとする世界各国を釣り歩く。
マッチング・ザ・ハッチの釣りだけではなく、総合的なマッチング・ザ・X(詳細は著書「ライズフィッシング・アンド・フライズ(地球丸刊)」を御覧下さい。)の理論で釣りを展開。フライフィッシングをさらに奥深い世界から捉えた眼力、分析力は他の追随を許さない。
著書多数。テレビ・ビデオの企画、出演などで活躍中。
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■FF徒然草 第9話
☆ 『林道』の話
……林道建設の摩訶不思議
* 林 道
久しぶりに出かけた川に、新しい林道が建設されていた……誰でもそんな経験があるかと思います。頻繁に出かける釣り場では、林道工事の一部始終を見せられたり、壊されていく風景に心を痛めたりすることもあります。
そんなとき、釣り人は「またこんなところに林道なんか作りやがって……」というふうに、身勝手な批判をしてしまいがちです。かといって自分が何をしてきたわけでもなく、これからも何ができるというわけではないのですが、文句だけは言いたくなるのが人情というものなんでしょうね。
そして批判の理由は、もっぱら以下のような項目に絞られます。
・ 林道ができることによって釣り場へのアクセスが容易になり、その結果釣り人の数が増えて魚の数が減る。
・ 林道工事そのものが、土砂の廃棄や河川改修、森林伐採を伴うから、河川を囲む自然環境に深刻な影響を与えることがある。
・ 林道完成によって、今後のさらなる伐採や自然破壊が起こる確率が高くなることに対する憂慮。
・ 林道工事の理由が明確でなく、それが地域内の一部の業者や有力者のためだけに行なわれているのではないか……というような地域事情に対する不信感。
とまあ、いろいろあったりするのですが、基本的には自分中心の思考展開の域を出ていません。今までのようにその釣り場を利用できなくなるのではないか……そうした不満の集約のようなものです。地域事情を理解してもいないのに、知ったようなことを言う人は多いですが、釣り人はその代表格かもしれませんね。
* 誰のために、そして何のために
しかし、ときにはどう考えてもおかしな話を聞くことがあります。それは東北地方のある川で起こっている出来事です。
もうずいぶん昔から通っているその渓には、もともとかなり奥まで林道がありました。しかしそれは30年以上も前に行なわれた伐採用の林道で、毎年のように土砂崩れで通行止めになるような悪路でした。流域に人家は数軒しかなく、山向こうの隣県側も同じような状況ですから、たとえ峠越えの林道ができたとしても、生活用道路として機能するとは思えません。伐採も行なわれていない現在では、産業道路としても機能しているふうには見えませんでした。
しかしここ数年、林道の整備が進み、入り口には新しい商店ができました。5km付近まで舗装が完了し、まだまだ先に進みそうな勢いで工事が続けられています。いったい何が目的で、どこまで林道を延ばすのかなあと思っていたら、以前からときどき世間話をする機会のあった地元の人から、次のような話を聞きました。
「あの林道はじきに峠を越えて隣県に抜けますよ。峠付近の山は、この村の有力者が持っている私有地なんですよ。林道が抜ければ、その土地の資産価値が上がるからねえ……」
「村で予算を取って、地元の業者に工事を発注してもらえば雇用も増えるしな。村の経済にとっては良いことだな」
つまり林道建設の目的は、住民の生活や産業のためではなく、個人の所有する土地の資産価値を高めるためのものなのです。資産価値が高まれば村の税収が増え、工事を請け負った地元業者も潤い、そこで雇われた地域の人たちにも賃金が発生します。そうした意味で経済効果を高めているのは確かなのですが、林道本来の目的からは大きく逸脱しているように感じます。ようするに、工事をするために工事をしているとしか考えられないのです。
しかしながら、そんなふうに疑問を感じるのは、どうやら外部の人間だけなのですね。地域としては、昔からそのようなお金の回し方をして、それによって地域社会を運営してきたわけですから、取り立てて不自然な行為とは思わないようなのです。うすうすおかしいとは感じていても、声を大にして叫んだりしたら、村にいられなくなってしまうかもしれません。
摩訶不思議な現象ではありますが、我が国の地域経済は、多かれ少なかれ、似たようなシステムによって維持されてきました。そうした構図を描くのが上手な人が財を成し、政治力を持つようにもなったわけですから。
美しい山河があり、そこにはたくさんの野生動物たちが棲んでいます。それらは、天然の渓流魚を含めてとても貴重なものだと思います。けれどもそれは、けっして共通の価値観ではありません。地域の人たちにとっては、昔から付き合ってきたありふれたものでしかなく、それ以上の感情を抱くのは難しいかもしれません。春に山菜、秋にはキノコが採れればそれでいいという人もいるでしょうし、漁協の組合員であっても、釣りをしたことのない人がたくさんいます。また、法律によって守られる部分もあまり多いとはいえないのが日本の自然です。
前述した東北地方の川には、今後もしばしば通うことになると思います。変化の一部始終を見るのは辛いかもしれませんが、何かできることがないものかと、模索していくことだけは忘れないようにしたいと思います。
佐藤成史
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